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お菓子ストーリー~多久(佐賀県) 岸川饅頭その2 (背景)~

2013年04月20日

 シュガーロード(長崎街道)のお菓子を調べています。
 先日(4月12日)行った佐賀県。出合ったぼた餅と岸川饅頭のことは先にブログにUPしました。

 すでに一部UPしている内容はこちら
 シュガーロードのお菓子たち~中原(佐賀県)綾部のぼた餅~
 お菓子ストーリー ~多久(佐賀県) 岸川饅頭~
 

 岸川饅頭は餡が入っていない饅頭で、これは中国から伝わった形(原形)ではなかろうか・・というものらしいことはすでに書いた。中国では、饅頭の歴史が数千年におよぶといわれている。

 そんな中国の文化がなぜ、多久に・・・と思うのだけれど、これには、江戸時代(元禄時代の頃)多久をおさめていた鍋島藩家老職であった多久茂文が孔子廟(聖廟)と東原しょう舎(学校)を建立したことに始まる。多久の聖廟・・といえば、わかる方も多いだろう。観光案内には必ず載っている場所。現存する孔子廟では日本最古らしい。多久では儒教による文武両道の教育を施されたということだ。

 今回、多久の聖廟を訪れてみたけれど、古い建物はとても赴きがありそこだけは中国・・の雰囲気。建物をよくみると、いろんな意匠があってそれもおもしろかった。(鬼や象もいた♪)写真を撮り忘れたのが悔やまれるが、聖域ではカメラをあまり使わないことにしているのでそれはそれでよかったのかも・・と思っている。どうしても、写真を見たい方は、多久の聖廟で検索又は観光案内を探して見て欲しい。

 この中国文化の招来は、中国文化の一つである蒸し饅頭をも運んできた。これが岸川饅頭ということになる。岸川饅頭は岸川地区で作られているから岸川饅頭。通常は、多久饅頭という。多久家代々がこの饅頭を作ることを推奨した・・らしいので、多久の中国熱は相当なものだということだろう。

 面白いのは、隣の小城では、黄檗宗の影響が強い。黄檗宗といえば、開祖は隠元で、隠元豆を伝えた事で有名。隠元豆は羊羹の原料である。北部九州で多い、カステラ饅頭の白餡の原料の一つでもあるので、やはり佐賀県では栽培されていたのか・・と妄想が膨らむ。

 佐賀の内陸で残る中国文化の影響。その象徴のような存在が岸川饅頭というのが面白くもある。
 

 























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~長崎街道(シュガーロード)について~
 長崎街道(シュガーロード)は江戸時代に整備された脇街道の一つで、小倉の常盤橋を起点として長崎にいたるまでの路線です。長崎の出島に入った砂糖はこのルートを通って大阪や江戸に運ばれました。この砂糖が通った道沿いには、さまざまなお菓子が生まれることとなります。そして、時代が下って、炭鉱が華々しい頃にそのお菓子たちは筑豊で大きく花開く事になります。今では全国的に有名になっている【ひよこ】や【チロルチョコ】などは筑豊生まれのお菓子です。
 私はこのシュガーロードを歩いて、お菓子が生まれた土壌、文化などを調べたいと常々思っていた・・というわけです。小倉~長崎までの宿場町に繁栄したお菓子、今でも残っている古いお菓子、新しい時代のお菓子、絶滅しかかっているお菓子など調べますよ。そして長崎まで調べたら、南蛮菓子の故郷、ポルトガルへ・・・と野望をいだいております。
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当ブログ内の文章、写真、その他の無断転用、転載を固く禁じます


  


Posted by はなはな at 22:07Comments(0)お菓子ストーリー

お菓子ストーリー ~多久(佐賀県) 岸川饅頭~

2013年04月20日




昨日(2013年4月12日)はランチのついでに佐賀のちょっと公共交通機関では行きにくいお菓子屋さんにつれていって頂く。シュガーロード(長崎街道)のお菓子を調べていることが、周りに認知されて、皆様、いろいろと協力をしてくださる。本当にありがたい。

 すでに一部UPしている内容はこちら
 シュガーロードのお菓子たち~中原(佐賀県) 綾部のぼた餅~ 
さて、今回の佐賀県のお菓子の調査のメインテーマは多久市北多久町の岸川地区に伝わる【岸川饅頭】を作っている、森上商店に行く事。

 お菓子・・とくに和菓子を調べていると必ずでてくる饅頭。日常的にも、最も親しみのある菓子で、種類も多い。歴史をみると、実は福岡にも関係がある。その昔、宋から帰国した僧、聖一国師が伝えたというのである。饅頭の歴史はいずれまた詳しく書くことにして、今回は岸川饅頭についての話のみ書く
 (今回の多久市はシュガーロード沿いの町ではない。こちらは、唐津街道の近く。唐津街道は唐津から福岡市内を通って北九州へ向かうルート。唐津の向こう(西側)には平戸があるので、南蛮菓子や砂糖の影響ももちろんある。ゆくゆくは唐津街道も調査するのだけど、ここではとりあえず、シュガーロード=長崎街道としているので、お菓子ストーリーにいれておく。)

 岸川饅頭を作っているお店、森上商店。山間の小さな集落に有るおまんじゅう屋さんといった風情。森上公子さんの娘さんに来店客が切れた合間にお話伺うことができた。
  



 



















 岸川饅頭はみてびっくりしたのだけど、とても大きい。直径が10cmほどもある。そして、最大の特徴は、餡がはいっていないことだ。餡のない饅頭は、歴史から考えると、中国から伝来した当時の形・・つまり原形に近いものではなかろうか・・・といわれている。

 素朴な外見。おおらかな印象の饅頭


 

















 中身はこんなかんじ。餡はなし。カットする為にナイフをいれたのだけど、跳ね返す力がかなりある。モチモチでこしが強い生地だ。そのせいか、高さは2.5cm~3cmほど。平べったい形をしている。餡がないと物足りない・・と思うかもしれないが、これが、麹を使っているせいなのか、かんでいると、ほんのりとした甘味がでてくる。朝食のパン代わりに食べる人もいる・・ときいたことがあったけれど、確かにそれは有りかも。蒸しなおすと、ふっくらとなる。ほのかにお酒のような発酵臭がするのが素朴でよい。




 
















 この饅頭を膨らませているものは、麹とごはんを代々伝わる酒のもとで発酵させたもの。素朴な香りはそこからくるようだ。
 お店がある集落では、5月に御田祭あるのだが、その時に供する為につくっていたものらしい。娘さん曰く、「発酵しやすい季節になって作る・・」なるほど、確かに冬場の発酵は時間がかかる。イースト菌だって大変なんだから、酒だねだったら尚の事だろう。(私は趣味でパン作りをしているので少しだけ事情がわかるつもり・・・)

 集落の各家庭で作られてきた岸川饅頭は、それぞれの味も違うし、製法も全然違っているらしい。森上商店の岸川饅頭は昔ながらの製法を忠実に守っている。

 かつては良質の小麦がとれたことも、この地域で饅頭が作られることになった要因のようだ。
   
 お店では、餡なしのほかに、あずきや高菜、よもぎ入りなども作っている。
(写真はサンプル(食玩)をとったもの。)これだけの種類が有る。人気は白い皮にあずき餡入り
だそう。よもぎはちゃんとよもぎの味がしたし、高菜は、以前、長野県で食べた野沢菜フランスパンを思い出させる味だった。他にはパンプキン レーズン 黒糖 にんじんなどバリエーションが豊富である。(11種類におよぶ)
 



 

















 岸川饅頭は、見た目は素朴だけれど、手間のかかった、真面目に誠実に、昔の味と先人の知恵を今に伝えてくれている饅頭。ずっと残っていって欲しい饅頭である。


 余談ですが・・・
 岸川饅頭の餡なし饅頭を食べながら、ふと長崎街道の起点、小倉の常盤橋のたもとの茶店、ときわばしで聞いた江戸時代にベトナムからやってきた象の話を思い出していた。
 長崎から歩いて江戸まで行った象の好物が、饅頭とお酒だったという話。饅頭は餡が入っていないものだという。こんなのだったのかなあ~・・と思いは宙を飛び江戸時代へ・・・。歴史好きの妄想でした(笑)




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~長崎街道(シュガーロード)について~
 長崎街道(シュガーロード)は江戸時代に整備された脇街道の一つで、小倉の常盤橋を起点として長崎にいたるまでの路線です。長崎の出島に入った砂糖はこのルートを通って大阪や江戸に運ばれました。この砂糖が通った道沿いには、さまざまなお菓子が生まれることとなります。そして、時代が下って、炭鉱が華々しい頃にそのお菓子たちは筑豊で大きく花開く事になります。今では全国的に有名になっている【ひよこ】や【チロルチョコ】などは筑豊生まれのお菓子です。
 私はこのシュガーロードを歩いて、お菓子が生まれた土壌、文化などを調べたいと常々思っていた・・というわけです。小倉~長崎までの宿場町に繁栄したお菓子、今でも残っている古いお菓子、新しい時代のお菓子、絶滅しかかっているお菓子など調べますよ。そして長崎まで調べたら、南蛮菓子の故郷、ポルトガルへ・・・と野望をいだいております。
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Posted by はなはな at 21:47Comments(0)お菓子ストーリー

シュガーロード~中原(佐賀県) 綾部のぼたもち~

2013年04月12日




 久しぶりにお花の先生仲間のYさんとK子ちゃんとランチに出かける。
 近頃の私のブログは、花より団子状態。長崎街道(シュガーロード)のお菓子のことばかりかいているので、Yさんから、ランチの後、佐賀のお菓子屋をまわりましょう・・というお申し出をいただく。
 なので、遠慮なく甘えて、「多久まで行きたい・・」とお願いして、連れて行っていただくことに。(私は車の運転をしないので・・感謝)

 さて、鳥栖で待ち合わせをして、佐賀市内を目指していた私たち。ふと見ると、綾部・・というバス停の前を通過。それを見たYさんが「このへんに綾部のぼたもちが有る」といいだし、私もそのぼたもちの存在はフェイスブックのお友達達から教えてもらっていたので、ぜひ一度食べてみたいと思っていたところ。なので、立ち寄って頂く事に。このあたりは、長崎街道の宿場町でいうと、中原宿にあたる。綾部のぼたもちはその宿場の名物である。

 ところで、ぼたもち(牡丹餅ともいう)・・・というと、こんな格言を思い出す。
 棚からぼたもち・・・労せずに思いがけない幸運にめぐまれること
 ぼたもちで腰を打つ・・・幸運が向こうから舞い込んでくること
 ぼたもちはこんな風に幸運の象徴のような表現に使われるお菓子。
 綾部のぼたもちも、食べると幸福をもたらすといわれている。綾部神社の参道で売られているところも、なんとなくご利益がありそうな感じである。

 綾部のぼたもちの歴史は古く、(老舗の橋本屋のちらしによると)800年前、鎌倉時代に源頼朝が奥州藤原氏を征伐した時、綾部の城主が手勢を率いて従軍、大いに戦功を建てて凱旋。その時に、里人達がたくさんの餅を搗き、あずきの餡をぬって戦勝の祝い餅として振舞った・・というのがはじまりだそうだ。 鎌倉時代のぼた餅は味噌餡だったらしく、今のようにあずきと砂糖で作る餡に変わったのは、江戸時代も末期のことだそうである。

 今では、年中販売されているぼたもちだが、もともとは夏の風物詩。綾部神社の旗揚げ神事にあわせて7月19日だけ売られるものだったとか。綾部神社は、風の神様を祭る神社で、この神事は日本最古の天気予報とも言われていて、五穀豊穣を祈るもの。遠方からも訪れる人が多く参道はとてもにぎわったという。しかし、第二次世界大戦で様子がかわり、十数軒あったぼたもち屋も戦後復活したのは5軒だけ。今では、泉屋・喜久屋・橋本屋の3軒になっている。

 喜久屋  あやべさんぼたもち・・と看板に書かれている。神社とともに有るという感じ。

 


















 

 




















 ぼたもちは、どこの店も同じ感じ(みため)一口大の大きさに餅丸め、餡に一度くぐらせた後パックに詰められ、上からたっぷりと餡をまぶす。
 
 




 





こちらは橋本屋
 
 



 
















橋本屋のぼたもちの餡はしっかりあずきの味がする。餡の味は各店、それぞれ特徴があるようだ。
 

 


















 どちらの店のぼたもちも、ほお張ると甘味が口いっぱいに広がる。食べると幸運をもたらす・・とはこのことか・・・と思うのは、私が甘党だから・・というだけではないだろう。甘いはうまい、快いにつながるのは本当だ・・と実感させてくれる。





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~長崎街道(シュガーロード)について~
 長崎街道(シュガーロード)は江戸時代に整備された脇街道の一つで、小倉の常盤橋を起点として長崎にいたるまでの路線です。長崎の出島に入った砂糖はこのルートを通って大阪や江戸に運ばれました。この砂糖が通った道沿いには、さまざまなお菓子が生まれることとなります。そして、時代が下って、炭鉱が華々しい頃にそのお菓子たちは筑豊で大きく花開く事になります。今では全国的に有名になっている【ひよこ】や【チロルチョコ】などは筑豊生まれのお菓子です。
 私はこのシュガーロードを歩いて、お菓子が生まれた土壌、文化などを調べたいと常々思っていた・・というわけです。小倉~長崎までの宿場町に繁栄したお菓子、今でも残っている古いお菓子、新しい時代のお菓子、絶滅しかかっているお菓子など調べますよ。そして長崎まで調べたら、南蛮菓子の故郷、ポルトガルへ・・・と野望をいだいております。
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Posted by はなはな at 22:47Comments(0)中原

シュガーロード 番外編10 ~嘉飯探訪~

2013年04月10日


近頃は、私の周りの人たちに、シュガーロードのお菓子にはまっていることがかなり知れ渡っております。すると、お菓子のことは、やはり楽しい♪・・ということになって、アンテナを一緒に張ってる状態になるらしく、いろいろな情報を提供してくださいます。

 先日、お花のレッスンにきてくださったマダムNさんから貰った情報は、西日本新聞に掲載されていた記事の件。

 飯塚市・嘉麻市・桂川町がおでかけガイド(2013年版)を出しているという内容。
 早速、観光案内所で貰ってきました。

 このエリアを嘉飯(かはん)エリア・・というらしい。

 飯塚はシュガーロード(長崎街道)の飯塚宿があったところ。嘉麻市・桂川町はその周辺部となります。このエリアは、近代になって炭鉱が発展した時代に、大きく栄えたところになります。お菓子も、その炭鉱の繁栄とともに大きく花開いたエリア。おなじみの千鳥饅頭、ひよこは飯塚生まれのお菓子です。町自体は、炭鉱とともに栄枯盛衰をともにした感じになっていますが、現在、その炭鉱をモチーフにしたブラックスイーツ 「KURO ◆SELECTION」地域おこしをしているようです。

 

 




























 
 写真は、嘉飯(かはん)探訪からですが、ブラックスイーツもこうやって一同に集まると、壮観だね~。全て買って並べて、食べたくなります。
 今年は焼き菓子でもブラックスイーツがでるみたいなので、それもちょっと楽しみです。

 ちなみに私が食べたことが有るのは、昨年秋に飯塚に行ったときに立ち寄った、さかえ屋の「炭都エクレア」だけ。(下の写真)
 


 
 












味が気になる方、嘉飯(かはん)エリアへ遊びにいかれてはいかがでしょう



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 私のライフワークとしての活動のこと・・
 ~長崎街道(シュガーロード)について~
 長崎街道(シュガーロード)は江戸時代に整備された脇街道の一つで、小倉の常盤橋を起点として長崎にいたるまでの路線です。長崎の出島に入った砂糖はこのルートを通って大阪や江戸に運ばれました。この砂糖が通った道沿いには、さまざまなお菓子が生まれることとなります。そして、時代が下って、炭鉱が華々しい頃にそのお菓子たちは筑豊で大きく花開く事になります。今では全国的に有名になっている【ひよこ】や【チロルチョコ】などは筑豊生まれのお菓子です。
 私はこのシュガーロードを歩いて、お菓子が生まれた土壌、文化などを調べたいと常々思っていた・・というわけです。小倉~長崎までの宿場町に繁栄したお菓子、今でも残っている古いお菓子、新しい時代のお菓子、絶滅しかかっているお菓子など調べますよ。そして長崎まで調べたら、南蛮菓子の故郷、ポルトガルへ・・・と野望をいだいております。
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Posted by はなはな at 09:45Comments(0)番外編